作文と手紙
自分の感じたこと、考えていることを文章に起こし人に読ませる。
これは私にとってとても勇気の要ることだ。
物心ついた時から学校で書かされる作文、これに困ったことは一度もない。
作文、文を作ればいいのだから自分の感情を入れる必要はまったく無く、なにを困る必要があるのか。
作文を書かされることに対して困る周囲の反応を見て不思議で仕方ない可愛くない餓鬼だった。
実際教師にはよく褒められた。「自分の気持ちをしっかりと書けている」と。
いったいいつから自分が手紙の書けない人間だと気付いたのか。時期は思い出せない。
ほぼ不登校だった自分に教師からの指示で送られてきたクラスメイトからの年賀状に対して、義理でもきちんと返事を書きなさいと母から急かされたときだっただろうか。
「思ったことを書けばいいんだよ。なんでもいいんだよ。」
その言葉ははっきりと覚えている。そして今だに重く、非常に重く頭の中に残っている。
思ったことを素直に書き表したことなど無かったからだ。
こう書いてほしいんだろう、こう書くことを求められているんだろうという言葉しか書かなかった。書けなかった。
恥ずかしいだとか書きたくない相手だからとかそういう問題ではなく。
自分の気持ちは分かる。たとえ義理でも手紙をもらって嬉しかった。
だがいざボールペンを握ると不安感で押し潰されそうになり、喜ばれることを書かなければ、望まれている言葉を書かなければ、それだけで頭の中がいっぱいになり嬉しい気持ちなど消えてしまう。
素直な気持ちをそこへ書いてしまうなら一言「怖い」。
そんな言葉を書けるわけもなくただ茫然としている私に向かって母が「照れくさいのかな?」「じゃあ今度会ったときにありがとうって伝えなさい」と声を掛けたときから20年以上続く手紙に対する言い訳が始まった。
「手紙とか照れくさいんだよね」
これはtwitterに投稿するときも同じで、実際に感動したものに対しても自分の気持ちを文章に起こすことができない。
必死に140文字書き出してみても本当の気持ちなのか分からない。そして怖い。
書いては読み返し自分の感情と違うような、嘘をついてしまったような、説明のつかないばつの悪さを感じて削除することを繰り返す。
おそらく実際嘘くさい文章になっていたと思う。削除機能万歳。
人のtweetを読んで心動かされることは多く、そんな人達のtweetを眺めてはとても羨ましいと思っている。
私は手紙が書けない。