生活
ただひたすらに自分の生まれ育った環境に対して小さな呪いとして残そうと試みてから九ヶ月。
正直たった九ヶ月前かという実感。
今日は生存報告として現在の生活を軽く書き出してみる。
私のついったーもご覧になっている方は「おっぼちぼち元気でやっとるな」という印象をお持ちかもしれない。
いま現在ぼちぼち生活できているのはなにかしら劇的な変化があったであるとか、無償の愛で包んでくれる救い主が現れただとかといったことでは(残念ながら)なく、取り巻く環境はほとんど変わっていない。
新しい仕事もようやく始めたばかりで月の手取りは十八万もなく、この先それ以上になれるかどうかもまったくわからない。
三十代半ばで手取り十八万以下、そんな生活するなら消えた方がマシという方もいるだろう。
じゃあなにに縋りついていまの生活を送れているのか。
一言でいえば開きなおることを覚えたこと。
ざっくり分類するとしたら母親と我が子と自分は結局は別の人間で別の人生であると思えるようになったこと、プライドを捨てるのではなく減らせるようになったこと、かいてもいい恥はかけるようになったこと、迷惑をかけることは必ずしも罪ではないと知ったこと、辺りだろうか。
そういった一つ一つの事柄についてはまた後日詳しく書いていければと思う。
ただはっきりしているのは当時の自殺企図を防いでくれた出来事は、私の不穏な動きを察知し家の場所すら知らず行きつけの飲み屋数軒の情報を元にそれらを周り店員客問わずスマホの写真を頼りに探し周っていた友人の存在だった。
私は人間を心の底から信じたことがない。正しくは、なかった。
話は少し逸れるが私の母も父も家族兄弟から冷遇されそれでも金銭的にも精神的にも家族に尽くしてきた人達であり、それを幼少期から見続けて育ってきた。
私はお年玉をもらったことがなく、いや正確には母が祖母や叔父に現金と封筒を渡してそれを受け取ったことはある。
母方の実家はアメリカからの輸入食料品を扱うそこそこの卸業者で、父方の祖父は米軍基地内で働く消防士。
どちらも沖縄県内の基準でいえば十分裕福な暮らしをしていた。
しかしどちらの実家にも盆(沖縄では旧盆に行う)や正月、または私の希望で遊びに行くときは母も父も数万程度の金を渡すのが当たり前の光景で、私にとって両親の実家や親戚との関係性というのはそういうものなのだなと理解していた。
母も父も十代で上京しずっと兄弟の学費を含め仕送りし続けてきた人達だというのに。
特に正月等は材料を自腹で買うところからさせられていたと記憶している。
当然調理も。
実家に同居している叔父や叔母は横で見ているだけだった。
引き篭もりから抜け出した十七歳以降社会に触れるようになってそれがどれだけ異常なことだったのかを知ることとなり、母も父もそれ程までに情が深かったのかそれとも愛情が欲しかったのか。
父にはもう聞けず母に聞くのは酷だろう。
私はいまだに創作物であっても知人友人から伝え聞く話であっても親戚から受ける無償の愛情であるとか、顔を見て喜ぶ祖父母の姿であるとかそういうものがまったく理解できない。
かろうじて想像できるくらいで。
恐らくこういった経験体験から無償の関係性を信じることができなくなっていったのだろう。
もしくは過剰に崇め、尽くそうとするかのどちらかの関係性しか知らずに生活を続けていた。
話が逸れ過ぎたが私の最寄り駅周辺の行きつけの飲み屋を探し回ったくれたのはそれまでに3回しか顔を合わせていなかった相手、正確には古くからの友人の友人である。
今でこそ二人とも友人であると言い切れるが、当時は正直知人と友人の間ぐらいの曖昧な関係性と距離感だったというのに。
「そういうこともあるのか」「そういうことも起こり得るのか自分の人生に」
感謝するであるとか感動するであるとかいう前に頭に浮かんだ感情はそういったものばかりで。
信じられない、なにかすごいことが起こったぞと。
恥ずかしながらなにかの宗教か?とまで考えた(おそらくこれを読むであろう二人に先に謝っておく。言ってなかったよなこれは。めんごめんご)
その衝撃から数週間経ってもやっぱり引き篭もり、連絡を途絶えさせる私に対して急に家まで押しかけてきてなにも聞かずにキンミヤ焼酎を一緒に飲むだけ飲んでなんでもいいから連絡だけは絶つなと言い残していったり、まったくもって三十数年間生活してきて体験したことがないお節介を焼かれ日々驚きむしろ私の広すぎるパーソナルスペースをぶち壊してくる彼らに若干の恐怖すら覚えていた(めんごめんご)
過去の記事?日記?にも書いたが私はASDだ。
よく言われるようにASDは人の気持ちがわからないわけではない。
わかり方がわからない。
すべての生活が暗記と模倣を繰り返して自分自身に刷り込んでいくしかない。
幸いにも初めての恋人は十七歳のときにできていたので彼氏彼女の関係性というものは学べていたが、友人関係でこれだけ近い距離で接したことがなかった私はそれを模倣し学び少しずつ少しずづ自分のものにしていった。
私にとってはずっとずっと人間との付き合い方こそが最大の悩みであったが想像していなかったきっかけでその距離感と感覚を知り、そこからその思考を転用し、利用し、改良を重ね親との関係性や会えない我が子との関係性を見直すとっかかりにしていくことができた。
とはいってもいまだに酒に逃げることも多々あるが、頻度は相当に減った。
そうして人間を過剰に恐れ、崇め、乞うてきた生活は少しずつ少しずつ変わりつつある。
私は友人を持つことができる。
実家がゴミ屋敷であること
5階建ての1フロアーに1部屋という広めのアパート
エレベーター無し
壊れた冷蔵庫が3つ
壊れたテレビが3つ
壊れた洗濯機が2つ
ひざ下まで覆うむき出しの空き缶の山
おそらく私が10代の頃から1度も開けられたことのない衣装ケースの山
玄関を塞ぐように積み上げられた新聞紙の束
家中に放置された猫の糞尿の痕跡
家中に放置された父の糞尿の痕跡
母は自炊ができない。
料理ができないのではない。昔から母は凝った料理を作りたがる人だった。
私がビーフシチューが食べたいと言えば隠し味のワイン選びから始まり6時間掛けて作るような。
子供ながらいつしか早く作りあがる料理ばかりリクエストするようになったぐらい1度作り始めると止まらなかった。
そんな彼女が今は物理的に料理ができない。
ガスコンロの周囲、ガスコンロ本体をびっしりと覆う固まり切った猫の糞のために。
残された調理方法は炊飯器と湯沸かしポットと電子レンジ。
母は潔癖症だった。
働けなくなった父に代わって2つの仕事を掛け持ちながらも毎日すべてを完璧に保とうとし、そしてそれを家族にも要求する。
子供の頃から少しでも家の中に埃を溜めたら怒鳴られて過ごした。
だからこそだろうか、彼女は私にずっと隠していた。
父が家の中で糞尿を垂れ流すほど精神的にも肉体的にも限界に達していることを。
自分自身が自宅を管理する体力が無くなりほぼ1日中寝て過ごす程弱ってしまったことを。
予兆が無かった訳ではない。
私が小学4年のときに父がアル中を拗らせ気が狂ってしまってからというもの、睡眠時間を削りに削り働きつつ家事をすべてこなしていた彼女には年に数回まったく掃除をしない時期というのがあった。限界点と回復期間だったのだろう。
その状態でも私が勝手に掃除をすることは許されなかった。泣きながら頼み込んでも。
彼女の言い分は「完璧にできないならさわるな。完璧にできるようになれ。私の息子なら絶対にできる。」であり、子供の拙い掃除方法は認められず帰宅した彼女によく責められた。
しかし最終的には彼女自身で完璧に仕上げる意地と体力があったので私も不条理な状況を飲み込むことができた。
掃除しだすまで数か月掛かることもあり苦痛ではあったが。
家が汚れる理由というのもはっきりしている。猫だ。
私が小学1年のときに拾ってきた野良猫から始まり、私が引き篭もりを脱する17歳にはその数は2桁を越えていた。
それでも衛生的な環境を保てていたのは私と17歳~19歳まで同棲していた私の彼女の存在だろう。
私と私の彼女が「中途半端な」掃除をすることを許されていたのではなく、おそらく彼女自身のプライドのために。
私が実家の今までのような一過性ではない現状を知ったのは4年前父の心臓が止まり病院に担ぎ込まれたと連絡があって帰省したときだ。
心停止の時間が長かったため脳へのダメージが重く、そのまま入院生活が始まった。
父は私のことも母のことも認識しなくなり、会いに行く度に「こんにちは。」と初めてあった人として接せられるのが辛かった。
それまで気は狂っていても「おかえり」と言ってくれたことがどれ程嬉しかったか。
その時点で父は56歳。早過ぎる。
病院から帰宅してから私は母に掃除業者を呼ぼう金は出すからと伝えたが、彼女の返事は「人様に見られるぐらいならこのまま死ぬ。お願いだから放っておいてくれ。」
いや、頼むからと少しでもこちらが強く出ると「うるさい。誰の家だと思っているんだ。今すぐ出ていけ。そんなに私に恥をかかせて殺したいのか。そんなに死んでほしいのか。」となり会話が成り立たなくなった。
2年間もの電話口での不毛な言い合いを続けているうちに父は1度も病院を出ることなく、1度も家族を認識することなく一昨年の8月にくたばった。享年58。
父方の親戚に連絡したが1人も顔を見にすら来なかった。母方の親戚には母の反対で知らせられなかった。
通夜も葬式もやりたいなら頼むから自宅以外でと言い張る母の要望を受け入れ、4年間1度も自宅へ帰れなかった父はそのまま燃やされることとなり、それから丸々1ヶ月間実家へ留まった私に出来たことといえば壊れた家電や汚れきった箪笥などを1ヶ所に寄せて積み上げ、家内をなるべく自由に動けるようにすることと自分自身と母の足を伸ばして眠れる場所を確保することのみ。
ゴミを1つ1つ洗ってからしか捨てることができなかったからだ。
彼女のプライドが汚れたゴミをゴミ袋に入れただけで捨てるということを許さない。
1度夜中にこっそり2袋分のゴミを集積所に出したことがある。
次の日気付いた彼女は私に掴みかかった。
話は戻るが足を伸ばして眠れる、というのは綺麗なスペースを確保する、という意味ではない。
ゴミを平らに平らに均してその上に汚れていない新聞紙を敷きその上で寝るのだ。
たった1ヶ月間の滞在で私は腰を傷めた。母の身体はどうなっていることだろう。
私がもっと早くにこの状況に気が付いていれば、父はもう少し生き伸ばせたのかもしれない。そして母の寿命も。
彼女は今年で60歳だ。1日中新聞紙の上で過ごし、衰弱し、私が仕送りした金すら取りに行くまで2~3日かけて風呂に入り身支度を整え満を持してしか受け取れない。
そんな生活をするべき年齢ではない。そんなことあってはならない。
せめてこちらから定期的に食料や衣服を送る。そんなことはとっくに試した。
母曰く、玄関を開けたらゴミを見られる。この家の悪臭を嗅がれてしまう。そんな恥ずかしいことはできない。 となり会話のループが始まる。
とっくに家の中の臭いは外へ漏れ出しているというのに。
3度試し3度受け取り拒否で食料が返ってきたとき送ることを諦めた。
送り付ける度に母は電話に出ることすら拒否し音信不通になってしまうからだ。
いつ死ぬか分からない相手にそうされて耐えられるだけのメンタルが私にはない。
東京に出てきてくれお袋1人ならなんとかなる、金は出すからとこれも伝えた。
母の返事は「ありがとう。家の掃除が終わったら喜んで行くよ。」と。
強く説得すると怒鳴り散らし音信不通になる。
もう常識的な、論理的な会話が出来なくなってしまったのかと私は電話を切る度に絶望する。
彼女は狂っているのではない、自分だけで責任を負おうとしているのがまったく隠しきれていない。
私と同じように面倒臭い人間。いや私が彼女に似たのだろう、本当に面倒臭い。
先々週信頼している友人数人に対して「また実家チャレンジしてくるわ!」と大見得を切ったが、完全なるハッタリだ。
身体の自由が利かない146cmの母と160cmの私2人で解決できる状況ではないのは誰がどう見ても分かり切っている。2人とも免許すらないのだから。
私には沖縄に頼れる人間が1人もいない。
おそらくそれ以外にも、もう。
半ばやけくそ、半ば自暴自棄としての帰省である。
このまま父と同じように衰弱死させてしまったらきっと私自身が壊れてしまうだろう。
だからこそ解決できないとしても自分自身が救われたいがため、やるだけはやったぞという自分自身に対する言い訳のために周囲に宣言し帰省する。
私はゴミ屋敷と化した実家以上に汚い人間である。
作文と手紙
自分の感じたこと、考えていることを文章に起こし人に読ませる。
これは私にとってとても勇気の要ることだ。
物心ついた時から学校で書かされる作文、これに困ったことは一度もない。
作文、文を作ればいいのだから自分の感情を入れる必要はまったく無く、なにを困る必要があるのか。
作文を書かされることに対して困る周囲の反応を見て不思議で仕方ない可愛くない餓鬼だった。
実際教師にはよく褒められた。「自分の気持ちをしっかりと書けている」と。
いったいいつから自分が手紙の書けない人間だと気付いたのか。時期は思い出せない。
ほぼ不登校だった自分に教師からの指示で送られてきたクラスメイトからの年賀状に対して、義理でもきちんと返事を書きなさいと母から急かされたときだっただろうか。
「思ったことを書けばいいんだよ。なんでもいいんだよ。」
その言葉ははっきりと覚えている。そして今だに重く、非常に重く頭の中に残っている。
思ったことを素直に書き表したことなど無かったからだ。
こう書いてほしいんだろう、こう書くことを求められているんだろうという言葉しか書かなかった。書けなかった。
恥ずかしいだとか書きたくない相手だからとかそういう問題ではなく。
自分の気持ちは分かる。たとえ義理でも手紙をもらって嬉しかった。
だがいざボールペンを握ると不安感で押し潰されそうになり、喜ばれることを書かなければ、望まれている言葉を書かなければ、それだけで頭の中がいっぱいになり嬉しい気持ちなど消えてしまう。
素直な気持ちをそこへ書いてしまうなら一言「怖い」。
そんな言葉を書けるわけもなくただ茫然としている私に向かって母が「照れくさいのかな?」「じゃあ今度会ったときにありがとうって伝えなさい」と声を掛けたときから20年以上続く手紙に対する言い訳が始まった。
「手紙とか照れくさいんだよね」
これはtwitterに投稿するときも同じで、実際に感動したものに対しても自分の気持ちを文章に起こすことができない。
必死に140文字書き出してみても本当の気持ちなのか分からない。そして怖い。
書いては読み返し自分の感情と違うような、嘘をついてしまったような、説明のつかないばつの悪さを感じて削除することを繰り返す。
おそらく実際嘘くさい文章になっていたと思う。削除機能万歳。
人のtweetを読んで心動かされることは多く、そんな人達のtweetを眺めてはとても羨ましいと思っている。
私は手紙が書けない。
自叙と遺書(書きかけ)
これはまだ書きかけであり尚且つ私には文才がまったく無く、そのコンプレックス故これまで親、恋人、友人から送られた手紙に対して一度も返事を書いたことがない人間であるということをはじめに断っておく。
ガラケーで見るネットからPCでのネットに移ったのは13年前、確かTSUKUMOのBTOで適当に組んだ14万ぐらいのゲーミングPC。
それから13年間、広がり続けるインターネットの力を借りて多くの友人を得、恋人を得、知識を得てきた私はインターネットが存在しなければとうの昔に自死していただろう。
これまでブロガーのブログを読んだり自分で書くということをしてこなかったのでどう書くのが正しいのかも分からないが、思うところがあり自分の自叙と残したい言葉を書くことに決めた。
人に相談する、心を開くということができない私自身が書くことで少しぐらいは救われるような気がしたからだ。
連絡を取れば一緒に酒を飲める知人や、抱かせてくれる・抱いてくれる異性の存在は肉体的な救いにはなったが、根本的な、根源的な精神の救いには残念ながらならなかった。
●以下これからまとめていけたらいいなと思うもの
ASDであること / 小学校4年生で左顔面麻痺となったこと / 17歳までの引き籠もり生活 / 抜け出してからのジャンキー生活 / 実家を飛び出し上京したことによって救われたこと / 一昨年くたばった帰宅と措置入院を繰り返していた父のこと / 潔癖症から転じてゴミ屋敷の主となってしまっている母のこと / 会えない我が子のこと / 何故こんなことをわざわざブログに書かなければならなかったかということ
いくつかに別けるのかこの一つにまとめるのか日記的に日々書き連ねていくのかすらまだ決めていない。
いずれにしろここに書かれていくものは結果的にただの呪いとなってしまうかもしれないが、ひとつぐらい何かしらになれるものがあればいいなと思っている。